高1の夏だったと記憶する。
神戸で生まれ育ち、中学・高校は下宿しながら広島で暮らしていた私にとって、人生初の東京であった。
千葉と東京に住む親戚を渡り歩き計4〜5日くらいの滞在だっただろうか。
アルタ前、渋谷スクランブル交差点、竹下通りに東京タワー、東京ドーム、そしてディズニーランド等々。
典型的なお上りミーハー田舎者であった私は、ベタな観光スポットを片っ端から巡ってったわけだが、それら訪問先のなかに、なぜか東京藝術大学も入っていたのだった。
今となってはその理由も曖昧だが、上野駅からてくてく歩いてキャンパスまで辿り着いたことは、映像として鮮明に記憶に残っている。
結局藝大は受験することもなく、そもそもその候補にすら入ってなかったわけだが、
四半世紀の時を経てここが自分の職場になるだなんて、当時は頭の片隅にもない。
人生不思議なものである。
さらに記憶を辿ってみる。
なぜ藝大を訪れたのか。当時私が慕っていた美術の先生がやたら自分の作品を評価してくれ、美術部に入れ入れと繰り返し誘われていて、調子に乗った私は自らのアートの才能を信じて疑うことがなかったのだった。
実際、よく絵とか漫画とか暇さえあれば描いていて、我ながらそれなりのクオリティだったのである。
んじゃいっちょ藝大くらい見とくか、という程度の軽い気持ちだったのかもしれない。
かの美術教師、勝手知ったるご自身の母校でもあり、それなりに名の知れた中高一貫の私立校で安定した職場だっただろうに、結局そこにはわずか2年間しかいなくて、颯爽と去ってしまった。
今思えば私自身、その2年は十代ど真ん中のこじらせまくっていた時期で、何だかんだでその先生から大きな影響を受けてたし、多分に救われていたんだと思う。
その学校は水球の名門でもあるのだが、彼は学生時代は水球部で世代別の日本代表にまでなったという噂。同じく水球で鳴らした吉川晃司が直の後輩で、お忍びで母校を訪れていた吉川氏と二人で談笑しているのを見かけたことがある。二人ともゴツくて巨大だった。
豪放磊落な人であった。
それでいて細やかで、自分で言うのも何だが、いろいろと気にかけていただいたように思う。
久しぶりにお名前ネットで調べてみたら、篠山や沖縄でチルドレンズミュージアムや学び場の設立・運営に長らく携わった後、つい最近地元広島に戻り、子どもの教育や支援の専門家としてNPO、大学など各方面でご活躍中だという。あの先生ももう60の歳なのか!
実は以前、全く別のルートながら東京で共通の友人がいるということを知りたいそう驚いた。
その友人から伝え聞くところによると、親類に不幸が重なったりして、一頃大変な時期を過ごされていたらしい。
結局サッカー一筋だった私は美術部に入ることはなかった。
先生とももう30年会ってないので再会したいなあ。覚えてくれているであろうか。
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