山峰潤也さん
第一報は前職の同僚Tからもたらされた。一緒にお会いしたことがあったのだ。 その後バタバタと周りのSNS界隈が騒がしくなり、ネットニュースでも多く報じられた。 キュレーター・山峰潤也が逝去 キュレーターの山峰潤也さんが41歳で死去。今年初開催「東京お台場トリエンナーレ2025」のアーティスティック・ディレクターも務める 若すぎる、早すぎる。 「昨年末に急病で入院し、懸命に治療を続けて参りましたが、2025年1月9日に息を引き取りました」と。 一体なんだこれは。 こんなことが起こるのか。信じられない。 お会いしたのは確か2019年だったか2020年の初頭だったか、とにかくコロナ騒動以前で当然東京オリンピックが延期になるなんて想像すらできなかった頃。詳しくは覚えてないけど彼がオリンピック関連で何かのアートディレクションを任されているということで、その小規模なブレストの集まりに呼ばれたのである。 彼、当時まだ30代半ば。頭のキレる人やなあ、と思った。 以後、彼のメディアアートや現代アートの批評・実践を軸とする八面六臂の活躍ぶりには舌を巻いていたところだ。 そもそも、一般的にキュレーターやプロデューサーというのは裏方で地味な存在である。 その彼の死が多方面のメディアで取り上げられること自体、わずか十年そこそこの短い間に積み上げられた類いまれな業績の証左なのだと思う。 にしても41歳。まだ人生折り返し地点にすら来てないじゃないか。 本当に、もっとこれからの活躍を見たかった。一緒に何か仕掛けたかった。 ご冥福をお祈りします。
2025年1月17日
菊ちゃんとの再会
年末年始は神戸と磐田で過ごした。 久々の魚の棚(うおんたな、と読む)で明石焼とか、11月にリニューアルオープンしたばかりというマリンピア神戸(旧ポルトバザール)とか、これまたつい数ヶ月前に20代にして一戸建てを購入した義弟の新居とか、いろんな鳥と間近に触れ合える掛川花鳥園(何気にオススメ!)とか、細々とそれなりに盛りだくさんではあったのだが、そんな中でも自分にとっていちばん大きな出来事はわずか半時間あまりの菊ちゃんとの再会であった。 菊ちゃんは、我が母の姉である。 姉といっても、母は六人姉妹の末っ子で、菊ちゃんは四女で、歳は一回り以上離れている。御年92歳! 旦那さんであった周蔵さんはすでに鬼籍に入られた。 というわけで数年前から菊ちゃんは須磨の浦が一望できる某老人ホームで暮らしているのである。 タイミングが合わず一度も行けてなかったのだが、今回神戸の最終日に無理やり予定をねじ込んだ。 本人は、自分はもうボケている、と自虐的にネタにしていて、実際同じことを間をおかず何度も言ったりするのだが、快活で矍鑠としていて何よりである。 母との会話はよくある関西のオバハンのボケツッコミのノリそのものだ。 私が生まれて数年、母はまだバリバリのキャリアウーマンであった。 なので平日の昼間は近くに住んでいた菊ちゃん夫妻のもとに預けられ面倒見てもらってたのだ。 夫妻には子供がいなかった、ということもあるのかもしれないが、周蔵さんにも菊ちゃんにもそれはそれは可愛がってもらった。 朧げながらその記憶しかない。 怒られないのをいいことに、調子こいて甘ったれてた、という意味では実の親に対して以上だったかもしれない。 奇しくも当時の自分と同じ年代の子供を今抱える身だが、彼らの傍若無人な振る舞いを見ていると、過去の自分もそんな感じだったんよな、と顔から火の出る思いだ。 おそらく十年くらいぶりにも関わらず、半分ボケてるにも関わらず、 そして事前に知らせず突然の訪問だったにも関わらず、 会った瞬間「おーー、ケン坊!」と迎えられ、「こんな大きなってーーー!」とケタケタ満面の笑顔で喜ばれると、それだけで不覚にもウルっときてしまった。 これから帰省のたびに訪れるようにしよう。 いつまでも元気でいてよ、菊ちゃん!
2025年1月6日
30年
高1の夏だったと記憶する。 神戸で生まれ育ち、中学・高校は下宿しながら広島で暮らしていた私にとって、人生初の東京であった。 千葉と東京に住む親戚を渡り歩き計4〜5日くらいの滞在だっただろうか。 アルタ前、渋谷スクランブル交差点、竹下通りに東京タワー、東京ドーム、そしてディズニーランド等々。 典型的なお上りミーハー田舎者であった私は、ベタな観光スポットを片っ端から巡ってったわけだが、それら訪問先のなかに、なぜか東京藝術大学も入っていたのだった。 今となってはその理由も曖昧だが、上野駅からてくてく歩いてキャンパスまで辿り着いたことは、映像として鮮明に記憶に残っている。 結局藝大は受験することもなく、そもそもその候補にすら入ってなかったわけだが、 四半世紀の時を経てここが自分の職場になるだなんて、当時は頭の片隅にもない。 人生不思議なものである。 さらに記憶を辿ってみる。 なぜ藝大を訪れたのか。当時私が慕っていた美術の先生がやたら自分の作品を評価してくれ、美術部に入れ入れと繰り返し誘われていて、調子に乗った私は自らのアートの才能を信じて疑うことがなかったのだった。 実際、よく絵とか漫画とか暇さえあれば描いていて、我ながらそれなりのクオリティだったのである。 んじゃいっちょ藝大くらい見とくか、という程度の軽い気持ちだったのかもしれない。 かの美術教師、勝手知ったるご自身の母校でもあり、それなりに名の知れた中高一貫の私立校で安定した職場だっただろうに、結局そこにはわずか2年間しかいなくて、颯爽と去ってしまった。 今思えば私自身、その2年は十代ど真ん中のこじらせまくっていた時期で、何だかんだでその先生から大きな影響を受けてたし、多分に救われていたんだと思う。 その学校は水球の名門でもあるのだが、彼は学生時代は水球部で世代別の日本代表にまでなったという噂。同じく水球で鳴らした吉川晃司が直の後輩で、お忍びで母校を訪れていた吉川氏と二人で談笑しているのを見かけたことがある。二人ともゴツくて巨大だった。 豪放磊落な人であった。 それでいて細やかで、自分で言うのも何だが、いろいろと気にかけていただいたように思う。 久しぶりにお名前ネットで調べてみたら、篠山や沖縄でチルドレンズミュージアムや学び場の設立・運営に長らく携わった後、つい最近地元広島に戻り、子どもの教育や支援の専門家としてNPO、大学など各方面でご活躍中だという。あの先生ももう60の歳なのか! 仲渡尚史さん 実は以前、全く別のルートながら東京で共通の友人がいるということを知りたいそう驚いた。 その友人から伝え聞くところによると、親類に不幸が重なったりして、一頃大変な時期を過ごされていたらしい。 結局サッカー一筋だった私は美術部に入ることはなかった。 先生とももう30年会ってないので再会したいなあ。覚えてくれているであろうか。
2024年12月8日
谷川俊太郎さんのこと
谷川俊太郎さんが92年の人生に幕を閉じられたという。 特別ファンだ、という自覚はないが、何だかんだで詩集は身の回り常備されていて、手持ち無沙汰なときについパラパラページをめくってしまうほどには当たり前のような存在として私のなかにある。 20年前、多くの人々と同様、ネスカフェのCMには清冽な感銘を受けたクチだ。 https://www.youtube.com/watch?v=zdamOuoDuDc かっきくけっことか、大好きって手をつないで歩くことは、子供たちが今よりさらに小さい頃、毎日のように読んでた愛読書であった。 絵本作家や翻訳家としての氏ももっと評価されていいと思う。いや、実際されてるんだろうけど。 氏の作品や業績についてはいろんな人がいろんなこと書いてるだろうから出る幕はないとして、 ここでは、他でほぼ触れられることのないであろう別のことを記しておきたい。 谷川俊太郎さんとは一度もお会いしたことはない。が、人生で一瞬交差したことがあった。 2009年、ということはもう15年前である。 前職であるT財団時代に、季刊の広報誌を発行することとなった。 その創刊号の巻頭言、すなわち今も途切れず続くその広報誌の、文字通り最初のページに、詩を寄せてもらったのである。 知る限りどの作品集にも収められていないので、ここで紹介しちゃおう(こちらに全文公開されている)。 「幸せです」 風が吹いている 遠くに凧が揚がっている 私は病院のベッドの上 でも私は幸せです 他人の不幸を忘れていられるほどに 余命半年と言われた日も ひいきのチームが勝つのをテレビで見て そうとは気づかず私は幸せでした これは錯覚だろうか 自分勝手な思いこみか ぶきっちょで不細工で 仕事でもヘマばかりして 馬鹿にされて女にふられて おみくじで大凶引いて 挙句の果てに病気になって やっと分かった ずっと幸せだったんだと 不幸には無数の理由があるけれど 幸せに理由はない いまここで私 本当に生きています 雲を見て枕元の花の香りをかいで 私は幸せです 当時谷川さんはまだまだ意気軒昂だったはずだが、なぜか病院のベッドの上、そして余命半年というシチュエーション。レアである。 思わずたまげたね。創刊号に余命半年をもってくるこのセンス(笑) 特にそんな深い意図もなかったんだろうけど。 そもそもなぜ谷川さんに巻頭言をお願いしたのか。 実は氏はかつてその財団の、1970年代末から90年代にかけて継続的に実施された「身近な環境を見つめよう」と題された研究コンクールに、審査委員として参加してくれていたことがあるのだ(第3回、1983~87年)。 今のようにNPOやボランティアといったソーシャルセクターが活況を呈する遥か前の話。 いわゆる研究のプロではなく、市井の人びとによる環境問題への取り組みを促すこのプログラム、当時としては画期的なものであったと推測する。 歴代の審査委員を見ると、谷川さんの他に林雄二郎、日高敏隆、赤瀬川原平、播磨靖夫、嘉田由紀子、延藤安弘……錚々たる面々である。 そして当時財団の求めに応じて谷川さんが作ったというこちら。 なにかを不思議に思ったら…… なにかを美しいと思ったら…… なにかをこれじゃ困ると思ったら…… それがもう研究の始まりです。 みつめる、考える、話し合う、歩き回る、手でさわる、筋道を立てる、 試行錯誤おおいに結構、結論が出なくてもいい、挫折も必要、けんかも楽しい。 研究は人生の数多い喜びのひとつです、 知ることの快楽が、いつの世にも人間を未来へと向かわせてきたのです。 研究は専門家だけのものではありません。 「身近な環境」は、専門家まかせにするのではなく、 わたしたちひとりひとりが自分の問題として取り組んでいくものではないでしょうか。 あなたがたもこの新しい知的冒険の世界に参加しませんか。 これまで応募してだめだったチームも、途中でリタイヤーしたチームも、 ぜひ再度チャレンジされることを期待します。 応募の締め切りは19*年*月*日です。 募集要項の表紙に記されたこの文言。 私は、これは研究というものについて書かれた最も美しい言葉ではないかと今でも思っている。 私が入職したのは2000年代半ばなので、このプログラムもすでに過去のものになっていたのだけど、この要項をファイルの奥から発見したときの衝撃を今でも覚えている。 何枚もコピーして各所に保管したので、今もダンボールの山のどこかに埋もれているはずだ。 知的冒険への最大級のエールに祝杯を。 心安らかに合掌。
2024年11月26日
五香宮の猫
『五香宮の猫』を観た。 岡山県牛窓という極私的なローカルな場と、そこに棲まう猫の物語である。 五香宮という地味な神社を中心とした何ということもない日常と、猫をめぐる人間社会側のいざこざ(、というほど大袈裟なものではないさざ波程度)が淡々と描かれる。 想田和宏監督の作品はほぼ全て観ている。 自ら「観察映画」と銘打って、その方法論を用いた作品づくりを行なっている。 観察映画とは。 観察映画の十戒 (1)被写体や題材に関するリサーチは行わない。 (2)被写体との撮影内容に関する打ち合わせは、(待ち合わせの時間と場所など以外は)原則行わない。 (3)台本は書かない。作品のテーマや落とし所も、撮影前やその最中に設定しない。行き当たりばったりでカメラを回し、予定調和を求めない。 (4)機動性を高め臨機応変に状況に即応するため、カメラは原則僕が回し、録音も自分で行う。 (5)必要ないかも?と思っても、カメラはなるべく長時間、あらゆる場面で回す。 (6)撮影は、「広く浅く」ではなく、「狭く深く」を心がける。「多角的な取材をしている」という幻想を演出するだけのアリバイ的な取材は慎む。 (7)編集作業でも、予めテーマを設定しない。 (8)ナレーション、説明テロップ、音楽を原則として使わない。それらの装置は、観客による能動的な観察の邪魔をしかねない。また、映像に対する解釈の幅を狭め、一義的で平坦にしてしまう嫌いがある。 (9)観客が十分に映像や音を観察できるよう、カットは長めに編集し、余白を残す。その場に居合わせたかのような臨場感や、時間の流れを大切にする。 (10)制作費は基本的に自社で出す。カネを出したら口も出したくなるのが人情だから、ヒモ付きの投資は一切受けない。作品の内容に干渉を受けない助成金を受けるのはアリ。 ご自身もいろんな著書とか記事でも書いてるが、これは別に想田監督の全くのオリジナル、というわけではなく、フレデリック・ワイズマンはじめ、偉大なるドキュメンタリー作家の膨大な作品群に依っている。 とはいえ従来のobservational cinema(ワイズマン自身はこの呼ばれ方を好まないようだが)であれば受け手によほどのリテラシーや受容性がないと、ひたすら味気ない映像の羅列で飽きがきてしまう。 (初期のワイズマンの作品、いくつか観たことあるが、いろんな世界の舞台裏が見られてミーハー的な野次馬欲がくすぐられる反面、起伏がなさ過ぎて不覚にも眠りこけてしまったことがある) かといって、見る者を特定の方向に誘導するような過度な演出ももっと苦手だ。 で、想田監督の作風は、こうした偉大なる先達たちの方法論を受け継ぎつつ、ご自身なりにブラッシュアップしたものだ(と私は解釈している)。 ナレーションやテロップはつけないといった、その核は踏襲していて一見無機質だが、作品の完成にあたっては途方もない時間と労力と、念入りな操作が行われている。 一周回ってある意味、究極の作為、究極の演出である。 その作為があまり前面に出過ぎると鼻につくんだろうけど、 想田監督の作品はそこが精妙に調節されていて、違和感なくその世界の住人になることができる。 そしてあくまで解釈はこちらに委ねられている。その塩梅が心地よい。 この作品は監督ご夫妻がコロナ禍の只中に牛窓に移住した2021年から約2年間にわたってカメラを回し続けたという。 作品の最後、撮影終了から公開に至るこの短い間に、すでに鬼籍に入られた人たち、猫たちの姿が映し出された。 人生も猫生も儚い。
2024年11月1日
Happy 50th birthday, the Toyota Foundation!
1974年に設立されたトヨタ財団が50周年という節目を迎えた。 めでたいことである。 モラトリアムで大学院に在籍しつつ、夜はバーテンダー見習いで小銭を稼ぎつつ毎夜お客さんと飲みつつ、日がな一日プラプラしていた私を、いわば現実の社会に連れ出してくれたのがトヨタ財団なわけであった。 ときに27歳。 まあ、使えない文系院生くずれの私を雇ってくれる昼職など他になかったであろう。 プログラムオフィサー、何それ?からのスタートであった。 正直これも腰掛け程度で入ったのだが、結局在籍したの丸13年(うち2年はブラジル行きのため休職)。 半世紀という長い歴史のうち四分の一くらいがっつり関わってたのかと思うと感慨深い。 何だかんだで居心地が良かったことを認めよう。 そして出てみて初めて分かる、この財団のユルさ寛大さ鷹揚さ(笑) 本は実質買い放題、結構な裁量で国内海外飛び回っていろんな分野の人にお話聞きまくり。 相当に自由にやらせてもらって有り難いことであった。 久々に職員や助成対象者の皆さんにも会えて同窓会気分。 親会社が日本を代表する超巨大企業ってこともあって、上の方は天下りの悪弊とかもあってちょっと勘弁いただきたいところなのだけど、まあそこは風に柳が吉。 次の50年もエッジの立ちまくった助成活動を!
2024年10月25日
闇の一日
なかなか衝撃的な映画を観た。 映画館ではない。年齢制限はあるものの、普通にYouTubeで公開されているのだ。 映画「闇の一日」 勝ち組負け組事件というものがある。 2013年の渡伯前、初めてその事件の存在そのものを知った。 が、この件について詳しく深掘りすることもなくブラジルでの二年間は過ぎた。 おお、普通に当事者が話しとるぞ。 これは何気に結構な歴史的証言なのではないだろうか。 オッペンハイマーのThe Act of Killingを思い起こした。 が、装飾もされてない分、よりシンプルな凄みを感じる。
2024年10月23日
オリエント工業
8月某日。衝撃のニュースが業界を駆け巡った。 ラブドールメーカーオリエント工業が事業終了 1977年創業の老舗 これは、、、行っとかなあかんやろ。 いつもの悪友Cとともに勇躍駆け付けたのであった。 初めて間近で見たり触ったりしたけど、これは凄い。精巧さが半端ないのである。 性、はもちろんのこと、医療分野への転用可能性も大いに広がる。 いずれもエッセンシャルな分野で、かつ他に並ぶもののない唯一無二性。 本邦が世界に誇るべき、文字通りのアートであろう。 アートの語源であるアルス(ars, ラテン語)は、治療行為も含めたより広範な人間の技術、技法全般を意味したのだ。 が、その孤高のアーティスト気質ゆえに、社長さんは廃業を決意したのだとか。 唐突な決断だったようで、熱心に商品を説明してくれた気のいい営業さんは、この先の身の振り方に悩んでいるようだった。 社長さん、そこはちょっと社員さんのことも考えたろうや(笑) ご自身がそれを望むかどうかは別として、現代アートとの接続とか、ソーシャルセクターとの協働とか、いろいろできそうだけどなあ。 蓄積された膨大なナリッジはこのまま埋もれて消えていってしまうのだろうか。 残念や! 【11/18追記】 もう閉鎖されたのだろうか、と何の気なしに覗いてみたら、事業再開してた。 さすがや。つよい(笑)
2024年9月7日
チロが逝く
先週のこと。 前職時代の元同僚二人と飲んだ。 うちW氏は、前職時代にそこで働きながら、某私大の特任教授をやっていた。 もう一人のA氏は6年前に前職を退職後、某地方国立大のテニュア教員になるも、家の都合でこの3月で退職、東京に戻ってきた。 かくいう私自身も一応大学の教員である。 何気にインテリな職場であることよT財団。 (まあ私の場合は肩書きは大学教員とはいえ、職務の内容上、いわゆる研究らしきことはほぼしてないが) 二人それぞれ、前に会ったのは少なくともコロナ禍よりさらに前のことなので、実に5年以上ぶりだ。 元同僚であるからして、当時は毎日のように顔を合わせてたわけで、それがこんなに間を空けて改めて再会するというのは不思議な感覚である。 店はここ。 料理も日本酒も美味しかった。80年続く老舗であるそうな。 で。 前職時代、年長の彼らと飲んだ後に毎度立ち寄っていたのが、 W氏が学生時代から世話になっていたという四谷のチロなるスナックで、 当然この日も行くものと覚悟を決めていたのだが、その場で調べたところつい2ヵ月前に57年の歴史に終止符を打って閉店したという。 https://twitter.com/satoruishido/status/1796547658204799181 何年も足を運んでおらず、不義理を働いてたのでエラそうなこと言えた立場ではないのだが、にしても残念である。 このお店、通りに面した正門ではなく、建物と建物の隙間の小路を縫うように入った脇の通用口らしき扉から入店する。入口からして難易度高い(笑) 代名詞は、数百本のキープボトルが納められているという壁一面のボトルロッカーである。 この中に、何百本目かのW氏署名入りのボトルもあったはずだ。 職場があった新宿での飲み終わりにタクシーでさくっと、よく通ったものであった。 ママさん、ご挨拶もできず失礼しましたが、長きにわたってお疲れさまでした。 玉袋氏、沁みるねえ。
2024年8月26日
家族のレシピ
考えさせられる。 何だかんだで想いを伝え合って逝けるのは幸せなことよな。
2024年7月28日
あんのこと
最近また腰痛が再発して、整体に通っている。QOLだだ下がりである。 まともにお稽古できる状態ではないので、合気道も休会しているくらいだ。 加えて、何なんでしょう。単純に集中力の低下?睡眠欲の増進?? 要するに、二時間身じろぎもせずにじっとしているのがいろんな意味で大変なので、最近映画館に足を運ぶ機会がとみに減った。 そんな中でも「これは」と思う映画は見るようにしてるのだが、今回たまたま目にした戸田真琴さんのレビューにも触発され、文字通り重い腰を上げて行ってきたのである。 で、どうせ見るならと、入江悠監督と主演の河合優実さんの舞台挨拶の回に狙いを定めて行くところが私のミーハーなところである(笑) 期待を裏切らない作品であった。 内容については多くの人が語っているのでそちらを参照。 あんを演じる河合優実さんは、素晴らしい演技だったと思う。 (今ブレーク中の女優さんらしいのだが、世に疎いので初めて知った…) あんを救済しつつ、一方で裏の顔を持っていた刑事の多々羅(佐藤二朗)も、良いか悪いかは別にして(いや、もちろん良くはないんだが)、人間ってそういうとこあるよね、と却ってリアリティを感じる。 多々羅のスクープを虎視眈々と狙いつつ、一方で親交を深める雑誌記者・桐野(稲垣吾郎)も、人間臭くてよい。 あんの母親すら、一貫して胸糞の悪い描かれ方ではあるものの、世の中にはこういう毒親もいるんだろうな、と妙に説得力がある。 わざわざ行く意味のあった傑作、ということを前提として、その上で敢えて言いたい。 私が唯一腑に落ちなかったのは、あんが身を寄せるシェルターの隣人、三隅紗良についてだ。 自らの幼い息子を、何のフォローもないままやたら身勝手な形であんに預けて長くほったらかしにしておきながら、最後に取り戻した際には「この子が無事だったのはあんのおかげ」と、あんを悼み、聖人君子みたいな顔して息子を慈しみながら物語は幕を閉じる。 うーん。子供なんてどうでもいい!というスタンスの毒親であるなら、あのエンディングにはなり得ない気がするし、かといって一時的な気の迷いで突発的に預けてしまったのだとしたら、あんな長期にわたって(あんが彼の性格や好みを完全に把握するほど)放置することはないだろうし。 このキャラクターだけはちょっとご都合主義的というか、造形が雑というか、「そんなやつおるか??!!」感が拭えないのであった。我が人生経験と人間理解の浅さゆえであろうか。 あるいは、どこかに私の見落としている伏線が張られていたのだろうか。 諸賢のご教示を乞いたいところである。
2024年6月28日
蝶々の心臓
InstagramとTwitterで長らくフォローしている石川祐樹さんによるフォトエッセイである。 写真、いいなあと思ってよく眺めていたのである。 一時は中判のフィルム、おれも買おうかと本気で考えたくらいだ(笑) 長女である真優さんが心臓に先天性の疾患を抱えて生まれてきたということは、ネット記事とかで前から知っていて、この本もずっと読みたいと思っていた。 が、10年前の本ですでに絶版だし、中古はプレミアが付いてやたら高い。 新宿区の図書館にも入ってないのだけど、いよいよ読みたくなって他区から取り寄せてもらった次第だ。 写真もいいし文章も泣ける。母親の強さ、そして真優さんの強さにも心打たれる。 手元に置いて繰り返し開きたくなる本だ。 当時は家族して生か死か、という極限の状況を過ごしていたわけだから、もう二度と繰り返したくないだろうし、実際切羽詰まってたんだろうけど、それでもかけがえのない瞬間の欠片がこれでもかというくらいに切り取られているのだよ。 そして、これらの濃密な時間から十数年を経た現在、弟くんともども、元気に十代を謳歌してるようで心から安堵する。 まあ、ここまで強烈に圧縮されたものかどうかは別として、親として子の健やかな成長を願う気持ちは、もちろんおれも等しく持っているわけで。自分も同じ状況におかれたら、こういうことを思うんだろうなということが、そのまんま言語化されている気がする。そしてセンチメンタルな父であるがゆえに、母の強さがいっそう際立つ(笑) 奇しくも同じ家族構成だけど、これから娘や息子が、もっともっと生意気になって反抗的になっておれは邪険に扱われ必要とされなくなっていくにつれ、何にも代えがたい今のこんな感情もいつか薄れていってしまうのだろうか。 そうなったらやっぱ寂しいぞ!
2024年6月25日
おれに聞くの?
山下澄人さんによる『おれに聞くの?』 見開き1ページで泣いた。 ネット上で無料公開されていることに免じて許してほしい。 Q. 「愛するということ」ってどういう事・ふるまいだと思いますか?エーリッヒ・フロムの同名の名著を読んで様々な人の考えを知りたくなりました。 A. 前にテレビのドキュメンタリーで養子を育てる夫婦を見ました。二人は子どもが出来なかったから親が放棄した女の子を引き取り育てる。まったく裕福ではなかった。思春期になるとその子は自分の出自を知り二人にひどい事をいって激しく反抗した。お母さんとお父さんはしかしまったく怒らなかった。うんうんというだけで子が怒り飽きるまで黙って聞いて、終わったらご飯を作った。わたしは見ていて途中何度も腹が立った。何だこのがきは。しかし二人は一度も決して怒らなかった。その子は十代で妊娠した。その時も二人は問い詰めたりせず「どうする?」と聞いた。うむとその子はいった。お母さんはその子のお腹をさすり「背中が痛い」というと背中をさすり毎日食事を作った。その子が子どもをうんだ。二人はうまれた子を愛おしそうに変わるがわる抱っこした。最後その子が子を抱きながら「お母さんみたいにこの子にしてあげたい」といった。わたしは「愛」という言葉を見ると聞くといつもそれを思い出します。
2024年6月2日
戦災・災害のデジタルアーカイヴ
渡邉英徳さんのレクチャーを聴いた(オンラインだけど)。 これまでよくTwitter(X)で「ニューラルネットワークによる自動色付け+手動補正」なる写真が流れてきてて、へーっと思いつつ、その都度「いいね」押しつつ眺めていたので、今回まとまったお話聴けるのは有り難い機会であった。 クリエイティヴ・アーカイヴの実践。 この分野無知だったけど、いきなり現段階での極致まで連れてかれちゃったみたいな趣きがあるな。 2011年から現在も続くヒロシマ・アーカイブ。 過去の広島の街と今の広島の街が地続きになる。 ストックされていた資料が、時空間に合流する、フローに変わる。 個別のデータが個別に存在しているのではなく、多元的なデータが一望できることで、一つ一つの葉っぱが木や森のなかに位置付けられること。 そしてその制作のプロセス自体が、記憶のコミュニティ形成につながると。 本プロジェクトには広島女学院の教員・生徒ががっつり関わっている。 地元から協力があることで、俄然スムーズに物事が進むんだと。 分野は全然違うけど、前職で国内各地のプロジェクトに関わらせてもらった経験から言うと、そりゃそうだろうなと思う。 で、女学院と言えば、我らが修道とは、それぞれ広島市内で私立の女子校、男子校ということで何だかんだ交流があったのだ。一緒に遊んだあの子たちは元気であろうか。懐かしいぞ。 このようなことを四半世紀ぶりに思い起こさせてしまうのも、アーカイブがもたらす「記憶のコミュニティ」の効用であろうか(笑) その前には長崎も。 2016年はこちら。東日本大震災から5年後。 「忘れない」震災犠牲者の行動記録 そして2022年、ロシアのウクライナ侵攻を受けて。 Satellite Images Map of Ukraine: The 2nd Year ヒロシマではストックからフローへの流れだったのが、 日々大量のデータが更新され続けていく現在、フローからストックへ。 一緒にやっているのは古橋大地さんではないか。前職時代の助成対象者でお世話になったのである。さすがや。 チェルニヒウ州ヤヒドネ村の小学校。 子供たち含め300人の住民が1ヵ月にわたって監禁されていたという。胸が痛い。 ウクライナ「戦災」「心の傷」をデジタルアーカイブに……地下に子供監禁、「ママ愛しています」も3D化 東大教授が現地と連携 日本ではほぼ忘れ去られてるけど、とんでもない被害を出したトルコ・シリア地震。 Satellite Images Map of Turkey-Syria Earthquake いずれもとんでもない業績や。 で、これまではクリエイターとして、渡邉さんが自身の技術と馬力でプログラムをゴリゴリ書きながら作ってきたことが、今やノーコードで、少なくとも技術的には誰にでも実現可能になった。 ここ数年、プラットフォームの進化が半端ない。 てことでそれを東大の1、 2年生対象の授業の課題として投げかけてみたところ…… 大学生が挑戦。GISを使って過去の災害データを可視化・継承する 優秀すぎる。 かねてよりレクチャーを行っていたという読売新聞の記者さんも。 令和6年能登半島地震被災状況マップ 能登半島地震では、渡邉さん自身もフォトグラメトリ(三次元復元)を用いて。 能登半島地震フォトグラメトリ・マップ 確かに大量のデータを必要とするようなタイプのアーカイブって、オープンソースと相性良さそうよね。 個人ないし少人数の作品から集合知の営みへ。 技術の革新に比例するように、それが格好の題材として必要とされるような災いや争いが頻発する現代は果たして幸福と言えるのか。答えはもちろん否に違いない。 何の変哲もない(ように見える)ただの日常の集積が優れたアーカイヴとして存在しうるとき、それはまた新たな意義が付与されるのだろう。 【参考】 Cesium(The Platform for 3D Geospatial) https://cesium.com/ https://ion.cesium.com/signin/ Maxar(High-resolution Satellite Imagery)※緊急時には無償で画像提供 https://www.maxar.com/open-data スタジオダックビル(フォトグラメトリ) https://www.studioduckbill.jp/ 戦争をデジタル技術でリアルに 東大教授と学生が届けたいこと https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231110/k10014253521000.html 能登半島地震と災害マップ──即時対応と継続的な支援のために https://www.u-tokyo.ac.jp/focus/ja/features/z0405_00030.html
2024年5月27日
越後奥三面
ポレポレ東中野で『越後奥三面 ―山に生かされた日々』を見た。 素晴らしいんだろうなと期待して行ったのだけど、やっぱり素晴らしかった。 ものすごいものを見た、という実感がある。 季節の移り変わり、そして連綿と続く人々の生活。 その様子を4年かけてカメラは追う。 なかでも雪に覆われた冬の情景は圧巻。 山に閉ざされた村、そしてダムの底に沈み今は存在しない村。 ガルシア=マルケスのマコンドの世界ではないか。 監督である姫田忠義さんと、その姫田さんが立ち上げた民族文化映像研究所(民映研)。 その最初期である1980年代、私の前職であるトヨタ財団が、まさに本作の制作や公開のため繰り返し助成を行っているのだ。これはちょっと誇らしいぞ。 11年前に亡くなられた姫田さんとは、人生で何度か交差したことがある。 京大にいらした際に上映されたのは確か『椿山』ではなかったか。 あと当時事務所のあった鶴川にも呼ばれ、長時間にわたってお話ししたこともある。 当時私は上記財団のプログラムオフィサーとして伺ったわけだが、姫田さんは民映研の持つ膨大な映像資料をどう残していくか、という切実な思いを持っておられたと記憶する。 姫田さん、何というか、Voiceがとっても良いのよ。 映画のナレーションも自分で担当してるけど、そのことはご自身でも絶対自覚しているに違いない(笑) 私の財団在職時、期せずして多くの民映研関係者の方々と知遇を得た。 姫田さんの同志でもあったグループ現代の小泉修吉さん。 助成プロジェクトのみならず、折に触れて映像関係のアドバイスをいただいた。 その弟子筋にあたる鈴木正義さんとはこちら。 後に映画『医す者として』に結実した。 カメラマンとして長年姫田さんと行動を共にした澤幡正範さんはこのプロジェクトのメンバーであった。 確か一緒に我がフィールドであるスラウェシにも行ったぞ。 (代表者の島上さんは師匠を同じくする院の先輩で、私が二十数年前初めてインドネシアに行ったときに初めて会った日本人でもある) 姫田さん最後の直弟子であった今井友樹さんも。 今回の『越後奥三面』デジタルリマスターにあたってクラウドファンディングにも中心的な役割を果たされたという。 そして、ささらプロダクションを立ち上げられ、今も親しくさせてもらっている小倉美恵子さん、由井英さん。 小倉さんは映画プロデューサーのみならず、今や心に染みる文章を書く稀有な文筆家だ。勝手に私淑している。 由井さんが10年以上をかけて監督した『ものがたりをめぐる物語』には内山節さんや田中優子さんや会田弘継さんといった錚々たるメンツに混じって、不肖私めも推薦コメントを寄せさせていただいている。畏れ多いことである。 (そういえば実はこの内山さんにも田中さんにも会田さんにもトヨタ財団時代に何かと関わってもらったのだった。今更ながら恵まれた職場や) 何が言いたいかというと、宮本常一から姫田さんへと連なるこの系譜は今も途絶えてなくて、そうした活動の一端に、民間の一助成財団の存在が多少なりとも寄与しているとすれば、その存在意義もあったということだ。 まさにプログラムオフィサー冥利に尽きるではないか。
2024年5月14日
マンガぼけ日和
『大家さんと僕』『ぼくのお父さん』に続いてこれもめっちゃ良かった。 認知症をこんなふうに描けるなんてほんま天才や。 マンガぼけ日和 原案からの漫画化を矢部太郎さんに依頼した編集者?もただ者ではないな。 有り難いことに両親は健在で、まだ経験せずにすんでるが、自分が先に死ぬというアクシデントが起こらない限り、これは近い将来、相当に高い確率で訪れる現実だ。 もちろん実際に介護にあたるとなれば綺麗ごとばかりではなく、大変なことも多々あるんだろう。 それでも、徐々に時間をかけて死ぬための準備ができて、続く世代その様をきちんと見せられて、そして当の本人は安らぎの中で逝けるという。 こんな幸せな終わり方が他にあろうか。
2024年3月13日
夜を乗り越える
本が好きだ。 中学から下宿生活を始めて当時一人時間だけはあり余っていて、部屋にテレビがない時期も多かったので、暇つぶしといえば本(かラジオかサッカー)だった。 だから大学行くか、となったときも文学部くらいしか選択肢として思い浮かばなかったのだ。 二十代後半になってようやく就職した頃は調子乗って月に何万も本に費やしていた。 が、経済的のみならず物理的なスペースにも限界を迎えてからは図書館を多用するようになった。 2013年にブラジルへ渡る際、数百冊を自炊、別の数百冊を断腸の思いで廃棄、残りの数千冊を実家に送り返したが、それなりに広さのある実家の結構なポーションを、私の数十箱の段ボールが占拠する結果となった。今更ながら、親にも非常に申し訳ないことであった。 今の住居は家族もいてますますスペースに限りがあるので、月に買うのは吟味を尽くしたせいぜい数冊程度とし、あとはひたすら図書館である。 区の図書館は一人10冊まで。子供名義のカードをほぼ私物化しているので自分のと合わせて20冊。基本、フルに枠を使っている。 加えて、ありがたいことに職場にも図書館があってこちらは30冊まで。そのうち何だかんだで20冊くらいはいつも借りている。 なので合計40冊前後の図書館本が常時家か職場か鞄のどこかにあって、返却期限と日々無駄に格闘している。一体何をやってんだか。 どこかで紹介されててとりあえず借りてみた『夜を乗り越える』。 又吉直樹さんの真摯さに心打たれた。 ここで語られているのは本への愛、文学への愛、そして太宰への愛だ。 『人間失格』は、十代の頃に読んでその過剰な自意識に「わ、これおれやん!」と自らを重ね合わせた。 ここまでは自分も又吉さんも同じである。 が、そこから私は他の代表作と言われる作品をいくつか読んだ程度で、又吉さんのように太宰治の全作品を渉猟する、ということはなかったと思う。 切実さ、向き合い方の度合いが雲泥の差だ。 本書で又吉さんが「全部が入っている小説」と絶賛する町田康さんの『告白』を十数年前に読んだときも、衝撃を受けたし、爆笑もしたし、城戸熊太郎の自意識が身につまされたけど、又吉さんほどの切実さを持って受け止めてはいなかった気がする。 大学院を出てから、十数年実務の世界で働いた(今もだけど)。 何か始めるとき、まず終着までの見通しを立ててみる。そこから逆算して最短ルートで攻略していく。 仕事なんて基本的には、そうやって計画立てたり優先順位つけたりして、限られた時間で効率よく要領よく進めていく方が良いに決まっている。 で、我ながら、それなりに実務の適性が自分にはあってしまった。結果、良くも悪くもそのやり方にいろんなところが浸食されてる。良くも悪くもというか、実生活を営む上で、ほとんどの場合それは大変に良いことなのだ。 おかげでかつて同居してた居心地の悪さみたいなものをポーンと外に放り出して、日々快適に生きている。 でもその弊害も確かにあって、仕事に限らず何か新しいことを始めようとするときに最後まで先走って見てしまう。見えてしまう。結果、今なんて、オチまでの道筋と結末時点のイメージが見えたら、実際にやる前から飽きちゃうことすらあるくらいだ(笑) 紆余曲折を経て、今は芸術を生業として生活が成り立っている。半分趣味みたいなもんだ。妻ももうすぐ、前から自分の行きたかった分野に転職するという。子供たちももう、文句なしに世界一かわい過ぎて困っちゃうほどだ。 つまりはこの不条理だらけの世界で何だかんだで身の回りは恵まれていて、何となくうまいこと落ち着いて、かつては過剰すぎた自意識もしゅんと収まっちゃってる感じよ。 その点又吉さんはどうだ。 芸人としても作家としても名を成しながら、いまだにこの居心地の悪さと同居し続けてる。対峙し続けている。その不器用さ、真摯さに大いに心打たれたのだ。 『劇場』にはいたたまれないくらいやられたけど、その深淵を垣間見た。
2024年2月22日
他人と一緒に住むという事
八木橋努さんと出会ったのは、彼の主催するワークショップに参加したのがきっかけだ。 7年半前、2016年春のことである。最中に熊本地震が起こったのでよく覚えている。 なぜワークショップかというと、当時私はワークショップデザインを学んでいたのである。 なぜ彼のワークショップかというと、当時私の行きつけだったどん底という新宿三丁目の飲み屋に案内の貼り紙がしてあったからだ。 ワークショップデザインを学んでいた身としては、こりゃ奇遇、面白そうじゃん、という軽いノリで参加を決めたのである。 なぜ飲み屋にそんな貼り紙がされていたかというと、後で知ったのだが、当時彼がそのどん底で働いていたからなのだ。だから、知遇を得たのはこのワークショップでだけど、実はもっと前に店員と客として会ったことはあったかもしれない。 即興的な対話劇を駆使したワークショップだったが、その実彼は実際に芝居を書き、演出を行うプロの劇作家でもあった。その頃すでに三本ほどの作品を執筆し、そして上演していた。 コロナ禍で一時中断を余儀なくされたものの、今も一年に一本のペースで作品を制作、上演している。 彼のメソッドはとても刺激的だ。 私が演劇でどちらかというと苦手なやたら大袈裟な身振り手振りとか、わざとらしさとかは一切出てこない。平田オリザ氏とはまたアプローチは異なるのだけど、独自のやり方でリアルとかどうしようもない人間の性とかを追求しているのである。 ワークショップの中で、設定と役柄だけ与えられて、即興でその場その瞬間にぽっと出てきた台詞や表情が、どんな脚本家が考えに考えても書けないリアルな言葉だったりして目から鱗。 おれってそんなこと感じてたんだ、いや、たとえそう思ってなかったとしてもこんな言葉が口から出ちゃったんだ、みたいな。事後的に気づいちゃうというか。 そしてそんな何気ない言葉たちを彼は貪欲にネタに取り込み、一つの作品を作り上げていく。なるほどその手があったか(笑) そうこうするうちに、彼は長らく勤めたどん底を辞し、そこから至近のゴールデン街のバーのマスターになった。当時新宿に職場があった私にとって有り難いことであった。 前後して彼は仲間たちと映画を撮り始めた。 2020年の正月に試写会があっていよいよ公開かと思ったらそうはならなかった。 (お招きいただいたのだが、ちょうど大学時代の仲間との新年会で痛飲後に駆け付けたので内容よく覚えていない) そこからさらに4年。撮影開始から実に7年の時を経て日本での公開に漕ぎ着けた。この執念、見習いたい。 で、昨日イメージフォーラムにてようやく視聴。 私も飲み屋のマスターとして一瞬映り込んでいるのはご愛嬌である。 うだうだした冴えないやり取りの中についつい自分を見てしまういたたまれなさ、人間の愚かしさに垣間見る可笑しみみないなものが何とも言えない。八木橋さん独自の世界だと思う。
2023年12月13日
Que rápido pasa el tiempo
久々にアルゼンチンへ行ってきた。 南米大陸自体、2015年7月にブラジルを発って以来である。 この8年はあっという間だけど、移動の30時間はやたら長い(笑) あまり自由な時間はなかったし、滞在したのもブエノスアイレスのみではあったけど、タンゴもアサードもスペイン語も懐かし過ぎてご機嫌ご機嫌。 15年前、前職時代に「アルゼンチン日本人移民史」の刊行プロジェクトでご一緒した米須清文さんも変わらずご健在であった。何よりである。
2023年12月9日
仮面 ー隠されたもの、顕れたもの 第1回
舞い、謡う。仮面のアジア 毎年特定のテーマを設け、藝大ならではの多角的視点からアプローチを試みる意欲的な企画「藝大プロジェクト」。今年のテーマはずばり「仮面」です。2回シリーズのうち第1回にあたる今回は、アジア各国から選りすぐられた三つの仮面芸能を、ミニレクチャーとともにお楽しみいただきます。 古今東西、その土地における宗教や祭祀の儀礼で使用されるのみならず、美術や演劇、音楽といった芸術の諸分野においても、それをモチーフとした魅力的な作品が多く作られてきました。「顔を覆う」という一見不自由極まりない制約から、人は想像力を駆使し、豊穣な世界を生み出してきたのです。 新型コロナウィルスによって、あらゆる活動に制約が課されたこの数年。鬱屈した思いを、その象徴的存在であるマスク(=仮面)に託して、いざアジアの深淵へ!
2023年10月10日