流されて

流れ流されて今ここにいる。
当たり前だが、全ての大学教員には何らかの専門的な技術なり業績なりがあって、その専門をもって教師たりえている。

例えばピアノ科の先生であれば、別の音大のピアノの教員なのか、あるいはソロのコンサートピアニストなのか、何にせよ仮に本学のピアノ科教員でなかったとしても、ピアノという己の唯一無二の武器を携え、ピアニストを職として世を渡っていくのであろう。他の器楽奏者しかり。器楽奏者に限らず技術者しかり、研究者しかり。

かたや私は何だ。自らのアカデミックなバックグラウンドを敢えて言うなら、大学院時代に専攻した地域研究とか人類学とかである。これほどかつての専門分野と、現在の生業が結びついてない大学教員も稀であろう。何せ音楽というものを、趣味としてはともかく、専門的な形では一度たりとも学んだことがないにも関わらず、よりにもよって演奏と名の付く組織の教員としてエラソーにしているのである。

公募の時期がちょっとでも違ってたら、今ごろ全く別の大学で全く別のことを教えることになってたかもしれない。そもそも他の大学では箸にも棒にもかからず、全く別の仕事をしていたかもしれない。「こうありたい」という明確な意志があったわけではなく、本当にたまたま。人生分からん。まさに流されて、なのである。

なんでまたそんなことを思っちゃったかというと、リスペクトする大学院の先輩である小川さやかにこの前会ったからなのだ。本学の授業にゲストで呼ばれたとのことで、久しぶりに会いに行って有楽町で終電まで飲んだわけだ。相変わらず面白いのう。トークスキルも格段に上がっとる。十数年前に彼女がサントリー学芸賞を取ったときの授賞式にも参加したのだが、その際の初々しいスピーチとは雲泥の差だ。

「その日暮らし」を標榜し、自らもたかだか20年前にはタンザニアで古着の行商をして日銭を稼いでいた貧乏学生が、今や40代半ばにして日本有数の私大の副学長に収まっちゃた!ほんま笑かすやないかい。自身もびっくりの出世街道であろう。戦略性のなさが効奏してここまで昇り詰めとる。もちろんそんなこと露ほどの興味もなさそうだが。期せずして「ウジャンジャ(狡知)」の極致やがな。

やっぱかくあるべし、と自らを一つの方向に規定してその路線を突き進んでいく、というより、流れ流され気づいたらこうなっていた、とそういう人生の有り様が私には性に合っている。めちゃ偉いやつなのにやたらほにゃほにゃしている小川さやかを見て改めてそう思った次第なのだ。

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えんたく(Entak)

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